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zoom RSS 大連立打診(6): ナベツネ介入とジャーナリズム

<<   作成日時 : 2007/11/27 19:22   >>

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「ジャーナリズム」とはなんでしょう? 
あまりに現実味のない「不偏不党」という理念を背負う、報道の姿を考えたいと思います。

(この記事は以下の記事の続きとして書かれたものです。)
 大連立打診(1): 問題点の整理
 大連立打診(2): 一般論としての是非
 大連立打診(3): 議論できない議員たち?
 大連立打診(4): 政権担当能力って何?
 大連立打診(5): 突然辞任と選挙の行方

 この連載もいよいよ最後の記事としたいです。
 最後は、読売新聞社の渡辺恒雄主筆が、一連の大連立協議を仲介したのではないかとされる疑惑についてです。

 疑惑については、複数の新聞社が報じており、また読売新聞が否定する報道を行っていないことから、僕は信じられると考えています。
 ですが、そもそも渡辺氏が福田、小沢両党首の会談を仲介することは、なぜ問題とされているのでしょう?

 長く、また話が散り散りになるので、記事を区切って書きたいと思います。



 まず、ニュース記事などを読んで、僕なりに論点を整理してみました。一連の報道では、次の二つの点が問題とされていたように思います。

◆ ジャーナリズムが政治に直接関わる是非
 ジャーナリズムとは、言論を通じて主張を国民に訴えるべきで、自らがプレーヤーとなって政治を動かしてはならないという主張があります。その点から、渡辺氏のジャーナリストとしての行動を批判する意見が多数聞かれました。(各社社説など)
 一方、ジャーナリストが主体的に政治を動かすことを容認する意見も聞かれます。ジャーナリストが自分の主張を持ち、それを自ら実行したり政治家に働きかけたりすることは正しいことで、それが行われなければジャーナリズムの活力が失われるという意見です。

◆ 不偏不党・公正中立な報道
 ジャーナリストが公権力に近づきすぎることで、公正な報道ができなくなるという批判です。事実、読売新聞は渡辺氏仲介の疑惑について(僕の知る限り)なんら実のある報道を行っていません。
 一方で、不偏不党、あるいは公正中立な報道はあり得ないという意見もあります。新聞社はそれぞれの編集方針を持ち、また扱う出来事の取捨選択を行う中で主観が入るのはやむを得ないことだという意見です。
 公正な報道とは何なのか、という問題です。



 この二つの論点について、僕の考えを述べたいと思います。

 ジャーナリズムの役割については、僕は、公正な報道さえ果たしていれば記者が政治に関与することを受容します。渡辺氏が会見を仲介したこと自体を問題だとは考えません。
 ただし、この論点については、「記者が政治に関与しながら、公正な報道を行えるのかどうか」がポイントだと考えました。その点が両者の立場でかみ合っていません。関与否定派はできないといい、関与容認派はそれが可能と前提している気がします。
 そして、「公正な報道」については次の文章で述べますが、僕は今回の読売新聞はそれを果たしていないと考えました。

 公正な報道について、僕は新聞社がそれぞれの主義主張を持つことを支持します。全く中立中性の考えは、空虚な“考え無し”と同じだと思います。公正中立な報道は、一つ一つのメディアが不偏不党であることで実現されるのではなく、多様なメディアがそれぞれの主張を行うことで全体として実現されるべきです。
 しかし、メディアが自分の主張を報道する際には、守らなければならないルールがあると考えます。それは、
  • 自社と対立する立場の主張を紹介し、その根拠も記事で取り上げること
  • 取り上げる記事の取捨選択を行う基準は、「重要か否か」とするべきで、「自分の主張に有利か不利か」を基準としないこと
です。これこそが、読者に考える手がかりを与えるという報道の役割を果たすことだと思います。
 この観点から、この一件について読売新聞は公正な報道を行えていないと考えます。読売新聞社が「大連立すべし」という主張を持っており、その実現にむけて渡辺氏が動いたのであれば、同社は主張の根拠とその対立意見、および渡辺氏の行った働きかけの全てを明かすべきです。しかし実際は、読売新聞は渡辺氏の仲介について沈黙を通しており、読者に議論の糸口すら与えようとしていません。



 このように、一般論として僕は「ジャーナリズムが主義主張を持ち政治に介入することは受容」します。しかし、それには守るべき前提条件があり、今回の読売新聞はそれを守れていないと考えます。
 最後はそのことについて思ったことを書きたいと思います。

 僕は、この読売新聞の姿勢に、非常に失望しました。新聞が読者の「知る権利」に応えないことは重大な背信行為だと考えるからです。
 新聞が、たとえば犯罪事件の容疑者を実名報道するのは、読者の「知る権利」に応えるためだとされています。容疑者は真犯人ではないかもしれず、また容疑者やその親族までがさらし者にされる苦痛は本来の刑罰には含まれない不当に重いものです。それにも関わらず実名報道を「知る権利」として行う新聞社が、自分の不利益になることだけを隠し立てするのは、とうてい許されないと僕は考えます。

 それでは、読売新聞(及びその主筆の渡辺氏)はどのような態度を取ることが望ましいのでしょうか? 僕の考えとして、選択肢を三つほど考えてみました。
 ジャーナリズムのあり方についての一つの考えとして読んでいただければ幸いです。

@ 渡辺氏は個人として政治に介入し、
  読売新聞社も彼を個人として扱う

 国民の一人一人が自分の政治的理念を持つのは素晴らしいことです。それは当然ながら渡辺氏にも当てはまります。そして、その理念を実現するために彼が持つ人脈を駆使するのも否定されるべき事ではありません。渡辺氏の働きかけに応じるかどうか決めるのは選挙で国民の審判を仰ぐ政治家たちだからです。
 しかし、渡辺氏が個人として政治に介入する限り、彼は読売新聞の記事に自分の影響力を行使すべきではありませんし、読売新聞もそれに屈するべきではありません。読売新聞は知り得た重要なことを報道するべきですし、その際に渡辺氏の都合を考慮すべきではありません。

A 読売新聞社として政治に介入
 読売新聞社の記者たちが、ジャーナリストの立場として政治に直接介入することも僕は容認します。自らの主張を持つことは良いことですし、その実現に向けて努力することも正しいことです。
 しかし、ジャーナリストであるならば、そのことを国民に報道する必要があります。自分がどういう理念を持ち、その根拠は何で、そのために何を行ったのか、つぶさに明かすことが求められます。
 読売新聞は「○○という考えに基づいて渡辺主筆が会見をセッティングした。会見はどうなった。福田党首は××と言った。小沢党首は△△と応えた」という内容を報道しなければなりません。報道機関として関わったのなら、会見の具体的な内容まで明かすべきです。
 そして、両党首もろとも、読売新聞社も国民の審判を仰ぐべきです。主張が受け入れられれば新聞の発行部数は伸び、だめなら売り上げが減るでしょう。

B いっそ政府報道機関になる 
 自らの理念を実現するために全力を尽くすのも結構なことです。持てる限りの人脈を駆使して政策を実現し、その障害となる事実を隠し有利な事柄だけ報道するのが近道です。それならば、僕はその政治に対する意欲を評価します。
 それが実現して読売新聞編集部が国政に影響力を確立した暁には、社名を変えるのはいかがでしょうか? 日本銀行に倣って、「日本新聞社」とするがよいと思います。法律に基づく認可法人となり、日本国の中央新聞社として政府公報を一手に引き受けましょう。財政は厳しいので、可能なら税金を使わず独立採算でやってほしいものです。
 そうすれば、国民である僕たちはその点を割り引いて記事を読むことができます。政府の推進する政策や、政治家たちの疑惑について、真実を知りたいと考えたとき、読売新聞に手を伸ばすという誤ちを犯さずに済むようになります。
 渡辺氏介入疑惑に関しては、この路線が今の読売新聞からは一番近いように思われますが。



 以上、いかがでしたでしょうか?
 どうまとめたらよいかも分からないのですが、とりあえず思うがままに書いてみたという感じです。ご意見ご感想いただければ幸いです。

 初めての連載記事でしたが、もしここまでおつきあいいただけた奇特な方がおられましたら、心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。


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